穂花です。

私が人生で最初に死にたいと思ったのは小学校4年生、十歳の時です。

当時の私は複雑な家庭環境に在って、虐待としか思えない仕打ちに遭っていました。
自宅は子どもの私にとって安心できる居場所であるどころか、
元養親の顔色を窺いつつ怯えて過ごすまるで牢獄みたいなところでした。

障害のある私は学校で同級生から激しいいじめに遭いました。
クラス担任までがいじめに加担していました。

小学生の私は給食の時間、クラスメイトが教室で食事するなか。
先生から「食べるのが遅い、クラスの輪を乱す」とひとり廊下に出されて、
コンクリートの床に正座して冷めたごはんを食べていました。

私は何かにつけて「死にたい」と思うようになりました。

余りにも堪らなくなって。

十歳の私は母方の伯母とその家族。
そして、クラスメイトのいじめから守ってくれるどころか。
私に「気持ち悪い子は痛い目に遭わないと悪い部分が治らない」からと、
いじめに加担するクラス担任に「死にたい」と直談判しました。

しかし。幼い私が「死にたい」と言葉にしたら、
周囲の大人は「そんなことを口にするなんて恐ろしい子ども、
将来はろくな人間になれない」と激しく詰りました。

死にたい私は大人からさらに貶められ詰られました。

その時、私は「死にたい」という感情に蓋をしました。
死にたい感情を「なかったこと」にしました。

死にたいと口にすれば救われるどころか周囲から糾弾されて…
さらに自分の苦しみが増すのだと学習させられました。

知らず知らずのうちに。
私には「死にたい」感情を自分のなかに押し込める癖がつきました。
死にたいという台詞を封印しました。

だけど、無理やり自分の感情に蓋をしただけだったから。

やがて思春期に入った私は精神を病みました。
十四歳の初入院を皮切りに、
以来…四十八歳までの間、私は33回にも及ぶ精神科入退院を繰り返しました。

ずっと死にたかった。

はじめて死にたくなったのは十歳の時ですが。
五十歳になった今もやはり死んでしまいたいです。

というか…はじめからなかったことにしたい。
生まれてこなければよかったと毎日思います…今でも。

死にたい気持ちに蓋をすることなんて本当はできません。
死にたい自分を誤魔化すことなんてできない。

おそらく。
死にたくて死にたくて苦しくて仕方ないのは、
死にたい気持ちを無理やり「なかった」ことにしてしまうから。
自分のなかの死にたい感情を誤魔化して「なかったこと」にしてしまうから。

死んでしまうことは確かにいいとは言えないかも知れない。
私もなんだかんだ言ってまだ死んではいないから、ここは今ひとつわからないけれども…

殆んどの人が「死んではいけない」と口にする以上、
死んではいけないそれなりの理由というのはあるのかもわからない。

ただ、これだけはお話しておくよ。
死んでしまいたい感情、消えてしまいたい気持ちも単なる「感情」に過ぎないよ。
感情にいいも悪いもないからね。

死にたい感情も正しくもないけど、悪くもないから。
単なる感情だから、それ以上の意味はないからね。いいも悪いもないよ。

あなたの考えた想いは全部あなた自身であり、
「あなたである」という視点では、あなたの想いはすべて正解だともいえるんだからね。

あなたの心に留めておく以上、何を考えてもあなたの心は自由だよ。

死にたい想いも、実行に移しさえしなければ「アリ」だからね。
何を考えても、何を思っても自由だよ。
今思う全てはあなた自身のリアル、ただそれだけだからね。

死にたいと思うこともまたあなたに許された自由。
自分の素直な感情に蓋をして、大切なあなた自身を誤魔化したりだけはしないでね。

ただでさえつらくて苦しくて「死にたい」くらいに追い込まれているのだから。
そんなギリギリのあなた自身の本当の想いに蓋をし、
あなたの怒りや切なさややるせなさを誤魔化して、余計に苦しむのは止めようね。

死にたいって感情は単なる衝動でしかないともいえる。
衝動はそれこそ一瞬のものでしかないから、時間が経てばまた変わり得る性質。
そのうち「気が変わる」可能性もあるよ。

死にたい衝動を実行に移して大事な自分の心身を傷つけなければいいだけだよ、
死にたいと思うのは自由だから。
死にたいって言葉にしたっていいんだよ。

これだけは覚えておいて。
苦しみの中に在る時、さらに苦しい感情に蓋をして…
自分を誤魔化してさらに苦痛の度合いを深める必然なんてないからね。

前田 穂花